グラスの奥

カウンターに見覚えのある横顔があった。駅前の小料理屋には似つかわしくない、糊のきいたシャツときっちり撫で付けられた髪型。でも、少し猫っ毛気味の襟足と銀縁の眼鏡はあの頃と変わらなかった。
平日夜の店内はそこそこ混んでいて、迷ったが隣に腰掛ける。
「……久しぶり、丁寧」
俯いた顔がこちらを向く。ああ、やっぱりそうだ。高校時代の面影はそのまま、少しだけ痩せた丁寧がいた。酔うと赤くなるタイプなのだろうか、既にそれなりの量を飲んでいるようだった。ぼんやりした表情が、すっと硬質なものになる。
「すみません、どなたでしょうか」
冷ややかな声だった。構えた態度になるのも当然だ。
「急に声かけてごめん、藻潮高校に通ってた賢明です。3年の時クラスが一緒だったんだけど……」
丁寧はこちらの顔をまじまじと見つめ、少し間を空けてから
「3年B組、保健委員、剣道部の」
と単語を並べた。
「ありがとう、覚えてくれてて」
「そちらこそ僕のこと、よく覚えてたね」
「覚えてるよ」
成績優秀、きまじめ、仏頂面。丁寧の印象を訊かれたら、大体の同級生はそう答えるのだろうか。目立つ行動をとるタイプではなかったが、誰に対してもくだけた態度は見せず、背筋が伸びていて、妙な存在感のある男だった。ぴしりと折り畳まれたハンカチ、細い縁の四角い眼鏡、やたら神経質で直線的なイメージがあるのに、髪の毛だけは柔らかそうな栗色なのが特徴的だった。大して話したこともないのに、一方的に覚えている存在だった……俺の中で。
「雰囲気が変わってなかったから、何となく」
「そうかな」
丁寧はこちらをもう一度見つめ
「君も変わってないね」
と呟いた。

飲みながら、互いに近況をぽつぽつと話した。”互いに”といっても、自分の話を丁寧が聞いて、うんとかそうだねとか相槌を打つ時間が大半だったが、時折返ってくる丁寧の話がどれも新鮮で面白く、何だか嬉しかった。きっと俺は、こうやって二人で喋ってみたかったのだ。酒が入っているからか、丁寧はあの頃よりも少しだけ饒舌になっていた。高校時代に話した時間の総計よりも、今日の会話の方が長かったんじゃないだろうか。
丁寧は去年の春からこちらに住んでいるらしい。俺が最近引っ越してきたことを話すと
「もう1年は経ったのか」
と意味深なことを言った。自分自身のことを話す時、丁寧は少し遠くを見つめるような顔をしていた。
「そういえば、お前がこういうところで飲んでるイメージが無かった」
「こういうところって?」
丁寧が首をかしげる。
「いや、最後に会ったのが制服姿っていうのもあるけど、こういう……カジュアルな店?」
筆文字のメニュー、ビール、枝豆、天ぷら。酒を飲んでいるのも、細々とした皿が卓上に散らかっているのも、丁寧の整った身なりとちぐはぐな印象を受けた。
「僕のこと、なんだと思ってるの」
ふっと目を細めて笑う。どこか疲れたような表情に、ああ珍しいものを見たという驚きと、年月の流れを感じた。
「えっと……俺はあんまり仕事以外で飲むことってなくてさ。まあでもせっかくだし近所の店を開拓したいなと思って。ここ、行きつけとかだったら悪いな」
「気にしないでいい。僕も初めて来たんだ。ここに店があるなんて知らなかった」
「割と駅前だけど」
「ああ」
チェーンの居酒屋と違って主張の強い店構えではないが、地下鉄出口からほど近く、奥まった場所にあるわけでもない。一度くらいは何の店か気になったりしなかったのだろうかと思いつつ、それを言うのは不躾だと言葉を飲み込んだ。
「俺は看板のそら豆の天ぷらに引っかかった、季節ものに弱いんだよ」
笑いかけようとして、丁寧の顔が曇っていることに気づいた。
「……」
「丁寧?」
「気づかないんだ、君と違って、そういうことに」
眼鏡の奥で、くしゃ、と顔が歪んだ。突然の出来事に思考が追いつかない。
「だからダメなんだろうな、僕は……」
それだけ言い残して、丁寧の頭が大きく頷くようにぐらりと落ちた。

「立てるか?」
歩いて帰れる距離なのは知っている。ぼんやりとだが意識はあったので、コートを着せ、肩を担ぐ形で店から運び出した。
「近所でよかったなあ、お前」
どうにか聞き出した住所を頼りに辿り着いたのは、頑丈そうな造りのマンションだった。部屋を探す際に近辺の物件は一通りチェックしたが、ここは単身者向けの物件ではなかった気がする。しまった、同棲相手やらパートナーと会ったら少し気まずいな……などと思いながら、エントランスをくぐる。
「キーケースが鞄の内ポケットに入ってる」
それまでぐったりともたれかかっていた丁寧が耳元で囁いた。俺が開けるのか。オートロックを解除したところでふと気づく
「部屋番号は?」
「1209」
「最上階かあ」
エレベーターを降り、恐る恐る鍵を開けると部屋は真っ暗だった。鉢合わせの可能性が消えてほっとする。
明かりをつけて「おお……」と思わず声を上げた。広い、そして物が少ない。がらんとした印象の部屋だが、家具家電は十分に揃っていた。大きなソファ、冷蔵庫、テレビ……本当に一人暮らしか?
ソファに丁寧を横たわらせると、細い身体がだらりと弛緩した。痩せているとはいえ、成人男性を一人で抱えて歩くのは流石に疲れる。床に腰を下ろしてひと息つかせてもらうことにした。
……コートとジャケットだけでも脱がせるか。
「悪いな、しわになりそうだから上だけ脱がせるぞ」
ハンガーを探して辺りを見回すと、部屋の端々から几帳面な暮らしぶりが伝わってきた。
流しにはグラスを洗った形跡があった。詰め替えられた洗剤、水切りカゴ、洗いざらしの布巾はきっちり畳んだ状態で重ねてあり、生活の気配が感じられる。随分ときれいなキッチンだが、新品のように使用感が無いというよりも、普段から使ってこまめに掃除をしている印象を受けた。
と、つい観察してしまうのは自分の悪い癖である。無事に家まで送り届けた、ペットボトルの水もそばに置いた、念のためメモも残した、自分のやるべきことは終わっている。これ以上はプライベートに介入するようで居心地が悪い。
「じゃ、帰るからな。気をつけて」
そそくさと部屋を出ようとする俺に向かって
「気にしなくていい、僕ひとりの家だ」
後ろから声がした。静かだが、はっきりとした口調だった。
「3月に妻が出ていった、離婚したんだ」
「……そうか」
「僕はつまらないって」
「……」
「驚きとか、悲しいとか、そういうのはないんだ。僕もそう思う、つまらない人間だって」
「そんなこと、」
そんなことないだろ、と言いかけた俺を遮って丁寧は喋り続ける。
「だから……向こうから切り出された時にやっぱりそうかって思ったんだ。でも、」
声が詰まる。
「丁寧、言わなくていい」
「でも、もう疲れた。僕も僕にうんざりした。こんな自分に……自分が自分でいることに、もう疲れたんだ……」
骨ばった手で覆われた目元から、ひとすじ涙が落ちる。
「君みたいな人間が相手だったら、出ていかなかったのかな」

眠りについた丁寧の顔から、眼鏡をそっと外す。春とはいえ夜はまだ冷えるだろう。ソファにあったブランケットを肩にかけた。
「丁寧、俺はつまらないなんて思ったことないよ」
目の前で静かに眠る男が、これまでどんな苦労をしてきたのか、俺は知らない。でも、一人には広すぎるこの部屋で、傷を抱えながらも真面目に生活を続ける丁寧がいじらしく感じられ、放っておけないと思った。もういいよ、十分よくやってるよと言いたかった。擦り減っても静かに堪え続けるような姿を見て、お節介にも何かしてやりたいという思いに駆られたのだった。
「今日あの店でお前を見つけた時、嬉しいと思ったんだ。だから……つまらないなんて思わなくていい。お前と会えてよかったよ」

外に出ると、さっきより風が肌寒く感じた。どんな言葉をかければよかったのだろうか。丁寧が楽になるために、自分は何が出来るのだろう。
「難しいなあ……」
何も知らないくせにと突っぱねられても、お前は悪くない、と言えばよかった。これ以上、自分で自分を責めなくていいと伝えられたらよかったのに。歩きながらぐるぐると思考は巡り、後悔が襲いかかる。振り払うように、自分の頬を叩いた。
伝えたいことは、これから伝えていけばいい。言葉がうまく出ないのなら、行動で示せばいい。「放っておけない」なんてエゴなのだから、拒絶されればそれまでと思って、向き合えばいいじゃないか。ずっと話したかったんだろ、あの男と。10年会ってなくても、混み合う店内で横顔から見つけ出せるぐらいには。

おわり

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