ガトーフレーズ

秋の終わりに、離婚後も惰性で住み続けていたマンションをやっと解約した。物件が決まってしまうと引っ越しまではあっという間で、休日や退勤後に黙々と荷詰めをして、特に感傷的になることもなく退去を済ませた。
賢明には引っ越すことをメールで伝えていた。こちらを気遣ってか、それまでコンスタントに来ていた食事の誘いがぱたりと止んでいることに気づいたのは、荷解きを終え一段落ついた12月半ばだった。

思えば、自分から賢明を誘うのは礼にかこつけた時だった。酔った自分を介抱して送り届けてくれたり、風邪の看病をしてくれたり……自分の情けなさを思い出して頭が痛くなってきたが、ともかく詫びを理由として食事をすることがほとんどだった。賢明は脈絡なく誘いのメールを送ってくる。口実などなくてもさりげなく連絡を寄越してきて、気づいたら自分を外に連れ出しているのだった。
慣れているのだ、きっと。自分と違い、あの親しみやすい人柄に惹かれて心を許す人間は多くいるはずだ。仲間に囲まれている姿も、誰かと二人きりで睦まじく過ごす姿も容易に想像出来た。
だから、そんな賢明が自分を誘う理由がよくわからなかった。「僕といて楽しいか?」なんてストレートに訊くことは憚られたが、疑心めいたものが奥底にとどまり続けていた。賢明といて落ち着く気持ちや、しみじみとした楽しさをこちらが感じることはあっても、自分から賢明には渡せるものが何もないと思っていた。久しぶりに会った同級生が近所に住んでいて、何となく物珍しさもあり遊んでいたのだろう。引っ越して会いやすくもなくなった以上、僕を誘う理由はない。
「……」
これが最後だ。何だか心配されている気配はあったから、あの家を引き払って新生活を無事に始めている姿を見せておこうと思い、連絡を入れた。
「えーっと、”新居へのお誘い”」

賢明から返信が来たのは、約1日後の深夜だった。
『ごめん、今は忙しくて』
ディスプレイに映る文字列を見て、時が止まった。賢明にしては返事が遅いと思っていたが、断られるのは予想していなかった。動揺と同時に、当然のように誘いを受けてくれると思っていた己の甘えを自覚して恥ずかしくなる。
『こちらこそ忙しい時にごめん、引っ越しの報告をしたかっただけだから』
またいつか、とまで打って消し、旧居ではお世話になりました、を送ろうとした瞬間、新着メッセージが表示される。
『空いてるのがクリスマスあたりなんだけど』
『お前さえよければ』
『そうなると年明けの方がいいかな』
怒涛の展開である。"忙しい"という言葉の意味が、本当に忙しいだけの場合もあるのがこの男だった。
『僕はクリスマスでもいいよ、土日とも空いてる』
むしろいいのか?と訊きたい気持ちをこらえて返信する。いや、賢明のことだからこのメッセージもいつもの調子で送っていて、特に気にしていないのかもしれない。
『じゃあ、引っ越し祝いもかねてケーキ買っていくよ』
語尾に菓子やら果物やらの絵文字が連なっている。賢明は大の甘党だった。

飲食店はどこも混んでいるだろうから、家で飲もうと提案した。出来合いではあるが、料理やつまみを用意して、ワインも買った。仕事が忙しい賢明に手間をかけさせたくないと思い、準備を申し出たのだが、自分で店をあちこち回って買い物をするのは案外楽しいものだった。ケーキは賢明の担当だった。買っていく、と言われた時に少しどきりとした。ケーキに関してあまりいい思い出がなく、ナイーブになっている自分がいた。

「ねえ、どっちがいい?」
記憶の中の彼女が微笑む。
「ショートケーキにしようかな」
「え?チョコだと思ってた……私が苺好きだって知ってるよね?」
一気に声がトーンダウンし、笑顔が消える。じゃあ最初から苺にすると言ってくれたら、という気持ちを抑え
「それなら、チョコの方でいいよ」
と返す。言った瞬間、答えを間違えた感覚があった。しかしもう遅い。
「"でいい"って何?買ってきたのは私なんだけど」
どんどん周りの空気が冷えていく。
「ごめん」
ため息をつきながら、彼女が音を立てて皿を置いた。
「はあ……謝ってほしいんじゃないの。もういいや。何でわからないかな」
険悪な雰囲気の中、喉が詰まりそうになりながらケーキを口に運んだ。どうすればよかったのかと途方に暮れる一方で、やはり自分は人の心がわからない、察して寄り添うことが出来ないのだと罪悪感に苛まれた。離婚前のクリスマスのことだった。
実家にいた頃も、似たやり取りを繰り返していた。不在がちな父の代わりに、子供の頃から自分が母の話し相手となった。母はよく「どっちがいい?」と訊いた。
「丁寧はどっちが好き?」
「丁寧ならどちらを選ぶ?」
「丁寧はどちらの方がいいと思う?」
正解すれば嬉しそうに笑い、間違えると機嫌を損ね、しばらく無視されたり冷たい態度をとられた。どうしてわかってくれないのと泣きつかれた時もあった。父はたまに帰ってきて「優しくしてやれ」とだけ言った。

寒くなると、どうしても暗いことを思い出してしまう。ふとしたことが引き金となり、苦い記憶がよみがえる。みみっちく恨む気持ちがあるから、幾つになっても引きずったままなのだと思いつつ、不思議と怒りは湧いてこない。出来事の仔細は覚えていてすぐ引き出せるのに、自分の感情はどこか遠くにある。
「賢明、来ないかな……」
待ち合わせは賢明の希望で最寄りから少し手前の駅になった。あまりなじみのない場所だったが、指定してきた改札で到着を待つ。電車から次々と人が降りる中、ひときわ背の高い男が足を止め、こちらに向かって片手を上げる。賢明だった。ロングコートを翻してやって来たその両手が空だったので、僕は拍子抜けした。
「丁寧、久しぶり」
「久しぶり……繫忙期お疲れ様でした」
「ありがとう」
上がった頬が数か月前よりも痩せていて、見慣れた笑顔のはずなのに、いつもと違う雰囲気に切なくなった。
「ケーキ屋寄っていこう、住宅街を抜けたところにうまい店があるんだ。好きなの選んでいいよ」
「えっ」
「だってさ俺、丁寧が何を好きなのかわからないし。一緒に見て選ぶのが早いだろ」
行こう、と前を歩く背中を見つめたまま、僕は一瞬立ち尽くす。賢明の言葉を反芻していた。そうか、そうだよな。言わなくてもわかるなんて、ないんだ。

ベルを鳴らしてドアを開けると、ショーケースには色とりどりのケーキがずらりと並んでいた。
「迷うな、丁寧は決まってる?」
「僕は……」
つやつやした赤が目に飛び込んでくる。
「ショートケーキがいいな」
「お!いいな、冬って感じがするチョイスだ」
「いや、苺が好きなんだ……昔から」
賢明はじっと僕の顔を見つめた後
「そっか」
と笑った。朗らかな表情に、心が緩む。
「じゃあ3月はボーナスタイムってわけだ。苺づくし、今から楽しみだな」
にこにこと笑いながらケーキを吟味する横顔を、ぼんやりと見つめる。賢明の3月に、僕もいるのか。いて、いいのか。
視界がぼやける。慌てて後ろを向いて、焼き菓子の棚を見るふりをした。

駅から家までの道を並んで歩く。賢明の両手にはケーキ屋の箱が一個ずつ増えていた。
「色んな味を楽しめた方が楽しいだろ」
「買いすぎだよ」
違う、こんな説教じみたことを言いたいんじゃない。自分だって、今日を楽しみにしていた。
「賢明、ありがとう」
「ん?」
いつもありがとう。声をかけてくれて、外に連れ出してくれて、僕に優しくしてくれて。
「こんなに楽しいクリスマスになるなんて、思ってなかった」
「まだこれからだろ」
「いや、去年は想像もしてなかった。……こんなに楽しくていいのかなって思うぐらいだ」
自分がこんなにいい思いをして、許されるのだろうか。優しくされて、嬉しい言葉をたくさんもらって。賢明といると、過去の自分ごと肯定されているような気持ちになる。でも、そんな幸せなことがあっていいのだろうかと己の中でストップがかかる。喜びを素直に受け取れずにいた。
「……楽しいと不安になる?」
「不安ってほどじゃないけど。でも、賢明は僕に優しすぎると思う」
「優しくしたくてやってるからいいんだよ」
「えっ」
一瞬、間が空いた。賢明が再び口を開く。いつになく真面目な表情だった。
「お前が楽しそうにしてると嬉しいから、俺がそうしたくてやってるから……だから気にしなくていい」
「それは、」
何で、と言いかけて思いとどまる。深掘りするのは野暮だと感じた。
「それは……僕のことを大事に思ってくれてるって自惚れてもいい?」
賢明が笑う気配がした。
「ああ、いいよ。何だっていい。いつだって丁寧の味方をする、お人よしがいるって思っててくれ」
「お人よしって……」
ふと見上げると、賢明は穏やかな顔でこちらを見つめていた。この男の優しさに報いたいと思った。
「僕も、賢明を大事だと思ってる。味方でいたいと思う……そういう奴は、他にもたくさんいるだろうけど」
「……」
「そんなに驚く?」
「いや……うん、そうだな……ちょっと、急に来たから」
何やらぶつぶつと呟く賢明をよそに、鞄の内ポケットを探る。マンションはもうすぐそこだ。部屋に着いたら、隣にいる男を目一杯もてなそうと心に決めた。

おわり

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