オーダーメイド

日曜日の昼下がり、丁寧の家に向かう電車はいつもより空いていた。空気は乾燥しているが、よく晴れた日だった。冬の白々とした日差しが車内を眩しく照らす。あたたかな光を背にぼんやりまどろんでいると、降車駅のアナウンスが聞こえてきた。慌てて連絡を入れる。
すっかり見慣れた道を歩いていると、丁寧から返信が届いた。
『鍵開いてるからそのまま入ってきて』
『下はインターホン鳴らしてくれたら開けるから』
珍しい。手が離せないのだろうか、でも返事が打てるということは……などとあれこれ考えているうちに、部屋の前まで辿り着いてしまった。ドアノブに手をかける。
「うわ、」
本当に鍵がかかっていない。家主の許可は出ているのに、何故か「開けてしまった」という感覚に陥る。ガチャリと響く音も手に残る感触も、いつもとどこか違う気がして落ち着かない。
「お邪魔します……」
恐る恐るドアを開けて中を覗く。廊下越しのリビングにも彼の姿は見えなかった。
「丁寧?」
呼びかけても返事は無い。後ろ手で鍵を閉めて、ゆっくりと廊下を歩く。妙に静かなのが心をざわつかせた。
突然、人影が現れる。
「わっ……何…………え!?」
丁寧が立っていた。正確に言えば、そこにはメイド服を着た丁寧が立っていた。黒くてスカート丈の長い、いわゆる王道のクラシカルメイドというやつだ。白いエプロンの裾と肩ひもにはたっぷりとフリルが付いていて、揃いのカチューシャまで装着している。
「ど、どうしたの」
思わず声が震えた。心臓がどっどっ、と音を立てているのが自分でもわかる。一体、何が起こっているんだ。
「買った。ネットは何でも揃って便利だね」
丁寧が真顔で答える。そういうことを訊いているわけではないのだが、混乱を処理しきれず「そうだな」と気の抜けた相槌を打つ俺がいた。

見慣れた賃貸の一室に、メイドの丁寧がいる。異様な光景だ。……かわいい。明らかにおかしなことが起こっているのに、最初に出てきた感想はそれだった。
クラシカルなデザインのメイド服は、丁寧によく似合っていた。真っ白な襟とカフスは清潔感があり、ぱりっとしている。エプロンのリボンは腰のあたりできゅっと結ばれて、蝶々結びの先が長く垂れ下がっていた。オーソドックスな黒いワンピースとエプロンの組み合わせを、真っ直ぐ背筋の伸びた良い姿勢で着こなしている。メタルフレームの眼鏡のひんやりした印象も相まって、さながら教育係やメイド長といった雰囲気だった。
目の前の丁寧をぼんやり見つめていると、手に持っていた鞄を引き取られた。
「おかえりなさいませ、ご主人様。よろしければ上着と荷物、お預かりしますね」
淡々とした口調だが、有無を言わせない迫力がある。
「あ、はい」
メイド喫茶のロールプレイでもするのだろうか。唐突に始まった遊びに、とりあえず付き合うことにする。肩からコートを脱がせる時ほんの少し背伸びをする姿を眺めながら、かわいいな……と思う。俺はもうダメかもしれない。
荷物を抱えて寝室に向かう丁寧が、くるりと振り返ってこちらを見た。
「手を洗ったら、お掛けになってお待ちください」
これから何が、俺を待ち受けているのだろうか。

大人しくダイニングテーブルで待っていると、丁寧がお湯を沸かし始めた。
「ご主人様はいつものコーヒーでよろしいですよね」
語尾の「ね」に若干の圧を感じながら、
「お願いします」
とだけ返す。てきぱき準備する後ろ姿を眺めていると、エプロンのリボンが解けかかっているのに気づいた。
「丁寧、後ろのリボン……」
立ち上がって結び直そうと手を伸ばしたところで、
「ご主人様、お触りは禁止ですよ」
と振り向きざまに咎められる。何なんだこれは……と半ば呆れつつも、久しぶりに見た冷ややかな目つきに「悪くなかったな」とぐっときている自分がいて、己の単純さに頭を抱えたくなる。

テーブルにコーヒーカップとソーサーが置かれた。保温のためだろうか、カップにはお湯が入っている。初めて見る丸いトレイに(まさかこれも買ったのか?)粉をセットしたドリッパーとガラスサーバー、銀色のドリップポットを載せて、丁寧が静かに席まで近づいてきた。それらを一つずつ下ろした後、
「では、ご主人様のためにコーヒーをお淹れします」
と厳かな宣言があった。
慣れた手つきでドリップポットからお湯を細く注ぐ。粉が膨らんでコーヒーのいい香りが漂った。
「蒸らしが終わったので、2回目のドリップです」
やけに本格的だ。
「もしかして、どこかのメイド喫茶にでも行ってきた?」
「……」
当たりか。どうしてそこまで……と訝しみながら、抽出されたコーヒーが少しずつサーバーへ落ちる様を眺める。
「どうして、って思ってる?」
声に出ていたのだろうか。
「そりゃまあ、さっきから驚きの連続だけど」
「これが、君の趣味なんじゃないの」
「……え?」
「前、言ってただろ」
記憶を遡る。それは随分と前のことだった。

丁寧の家で、並んでテレビを観ていた。見覚えのある光景に画面が切り替わる。
「あ、メイド喫茶」
パステルカラーの店内が映し出され、芸能人が接客を受けている。メイドの器用な手つきで、オムライスの上にうさぎが描かれていった。ハートを添えて完成だろうか、見事だ。
「行ったことある?」
画面を見つめたまま、丁寧が訊ねる。
「無い、けど会社のやつがよく行ってるから......何となく知ってる」
内装に見覚えがあるから、この店だったのかもしれない。飲みの席で同僚に見せられたチェキに、似たような制服が写っていた。
「誘われたりしないの?」
「無いな、話聞いてるだけだよ。それに、どっちかっていうと俺はもう少しクラシックなやつの方が好きだ」
「クラシックっていうと?」
返答に迷う。丁寧に伝わるだろうか、と思いつつ頭に浮かんだイメージを説明する。
「黒と白の……ロングスカートにエプロンが付いてるシンプルなやつ。お屋敷にいるメイドさん、みたいな」
「へえ、そういうのが好きなんだ」
からかうというよりも感心するような丁寧の口調に、居心地が悪くなる。
「な、何」
「賢明のそういう趣味みたいなの、初めて聞いたなって」
言い方に含みを感じて、思わず弁明したくなった。
「趣味っていうよりも、これはロマンみたいな……憧れってやつだよ。丁寧は無いの?」
「憧れか……。無いな」
そういえば、といった口ぶりだった。
「別に、隠さなくても」
「いや、本当に何も無いんだ。考えたことすら」
そんなわけないだろ、とは言えなかった。再会してから気づいたことだが、この男は自分の欲求や感情を遠くに置いている節がある。もともとの性質なのか、周りの環境がそうさせたのか。執着が薄い、と言えばいいのだろうか。その場の正解が先で、己の欲するものに対しては優先順位が低いように見えた。
世間一般の基準を持ち出して、もっと感情的になるべきだ、関心を持つべきだと言うつもりは無い。何を感じようと、感じまいと丁寧の自由だ。興味が無い、というのも一つのあり方で、そこに「適切さ」を求めるのは押し付けだ。
だけど、お節介な俺はふと考えてしまう。もしかしたらずっと昔は、丁寧にもあったのかもしれない、と。心惹かれるもの、欲しいと感じたもの。今は奥底に沈んで、すぐには取り出せなくなったものたち。それらが、何かをきっかけにふと浮かび上がり、丁寧の喜びにつながるのだとしたら。
「じゃあ、未知数ってことかもしれないな」
「未知数」
丁寧が繰り返すように呟いた。

「賢明は、僕のことをつまらない人間じゃないと言ってくれるけど、疎いところはあると思う」
自分のことを話す時、丁寧はどこか遠くを見つめるような目をする。すっかりメイドからいつもの丁寧に戻ったようだった。
「こうあるべきとか、この方がいいと思うものはある。でも、そうじゃなくてもっと感性とか興味に近い……」
ドリップポットを持つ手が止まる。言葉を探しているようだった。
「憧れ?」
「そうだね、憧れ……趣味って言ってもいい。好きに考えてみて、って促されても何も出てこない。君を見ていると、自分はそういうのに乏しいんだと感じる」
淡々とした口調からは、自嘲も、俺をからかうニュアンスも感じられなかった。ただそこにある事実を述べるように、自身について語る。
「自分が何に惹かれるのか、考えたことが無かった。考える機会が無かったことすら、君に言われて気づいたんだ」
だから……と丁寧が言葉を続ける。
「殻を破る、みたいなことをしてみたくなった」
「で、行ってみたと」
「ああ。クラシカルメイドって言うらしいね、調べたら店も色々あった」
スマホでメイド喫茶について検索する丁寧を、思い浮かべる。
「どうだった」
「面白かったよ。独特な世界観で、こういうのもあるんだって」
「チェキとか撮ったの?」
「いや、そこまでは」
少しほっとする自分がいて、すぐに俺は一体何なんだという感情に襲われる。
「でも、夢中になるかどうかはわからなかったな。これからわかるのかもしれないけど」
「……それはそれとして」
注意を引くように、エプロンの裾に触れる。想像よりなめらかな生地だ。フリル部分を指で摘んでみても、今度は咎められなかった。丁寧と目が合う。
「どうして僕が着ているのかって?」
「まあ、そうだな……言ってくれたら、せめて心の準備が出来た」
「それだとあまり意味が無いというか……」
語尾を濁される。
「もし僕が着たらどうする?って聞いたところで、困るだろ。事前に言ったら、君はどんなリアクションを取るべきか考えてしまう気がするし」
今の状況も十分混乱を招いているが……という言葉は飲み込んだ。
「だから、不意をついてみた。君がどんな顔をするのか見てみたかったから」
「え」
「僕の趣味ってそれかもしれない」
思わず顔を見上げて表情を確かめる。
「……すごいことを言ってる自覚はある?」
「まあ、うん」
丁寧は平然としていた。
「今回はちょっと特殊だったかもしれないけど」
「ちょっとかな」
「例えば……一人でいる時に何かを見かけて、君は気に入るかなとか、どんな反応するんだろうって思う。そういう日常の延長なんじゃないかな、君の顔が見たいっていうのは」
そんなの、と思う。うまく整理出来ない感情が突き上がってきて、頭がくらくらした。だってそんなの、まるで……。
「僕は君みたいにはなれないけど、でも、だからこそ面白いというか……そこに共感が無くても楽しいって思える。君の感情が動くのを、そばで見ている瞬間が」
俺ばかりが好きで、一方的に見ていると思っていた。それなのに、眼差しがくるりと反転して、こちらに向けられたらどうすればいいのかわからない。予想外の連続に、今日はずっと翻弄されている。

俺の動揺をよそに、丁寧は手際よくドリップを続ける。フィルターから最後の一滴が落ちた。お湯であたためていたカップに、コーヒーを注ぐ。
「ご主人様、どうぞ」
少しかしこまった声で言いながら、コーヒーカップを手で指し示す。ごっこ遊びはまだ終わっていなかったらしい。
「心を込めて?」
「当店、そういったサービスは無いです」
「はい」
たしなめられて、大人しくカップを傾ける。美味しい。一口目から心地よい苦味と香りが広がった。ほう、と思わず息をついた俺を見下ろして、丁寧は満足気な顔をしていた。
「こだわって淹れるのも、やるからにはちゃんとしたいのも、自分がやりたくてやってるだけだ。君は無理に受け取ろうとしなくていい。……でもまあ、喜ぶ顔が見たいって気持ちは含まれてる」
そう言ってから、丁寧は少し俯いた。
強い冬の日差しが窓から差し込んで、丁寧の輪郭を包む。エプロンと襟元がレフ板みたいに白く眩しい。伏せた睫毛と、銀縁の眼鏡の上できらきらと光が踊る。
「うまいよ、ありがとう」
弾かれたように顔が上がる。俺を喜ばせようと思う丁寧が愛しい。丁寧が過ごす日々の中に、俺のことを思い浮かべる時間があるのだという事実が、途方もなく嬉しかった。めまいがするほど。
「あと、すごくかわいい。俺の憧れそのものだ……似合ってる」
袖口を指先で握りながら、丁寧が再び俯く。少し間が空いてから、小さな声で「言いすぎだよ」と呟くのが聞こえた。薄い耳朶が赤く染まる。初めて、この男が照れるところを見た気がした。

おわり

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